このデジタル化された現代に生きていると、自分がどれほど中毒性のあるものに囲まれているのか、ふとした瞬間に気づかされることがある。わずかな隙間時間。手持ち無沙汰を埋めるように、無意識のままスマートフォンに手を伸ばし、動画を流している自分がいる。
特に強い興味があるわけではない。ただ、なんとなく見てしまう。その「なんとなく」が積み重なって、時間が静かに削れていく。
気づけば、選んでいるようで、選ばされている。自分の意志で触れているつもりが、実は流れに身を委ねているだけなのかもしれない。そんな感覚が、どこかに引っかかっている。
そして最近は、さらにややこしい現象が入り込んできている。生成AIによって作られたフェイク動画、つまりは本物ではない、完全な虚構が存在する。それが、何の違和感もなく流通し、拡散されている。
厄介なのは、それが「嘘だとわかる嘘」ではなくなってきていることだ。一瞬、信じてしまう。いや、意識しなければ見抜けないレベルにまで精度が上がっている。おそらく数年もすれば、もはや見分けること自体が意味を持たなくなるかもしれない。
そうなったとき、私たちは何を「本物」として受け取り、何を楽しむのだろうか。
エンターテイメントの基準が、「真実かどうか」ではなく、「どれだけ刺激的か」にすり替わってしまう可能性もある。現実である必要すらなくなり、ただ強く、速く、わかりやすいものだけが消費されていく。そこに残るのは、感情の瞬発力だけかもしれない。
けれど、本来の面白さとは、そんな単純なものだっただろうか。時間をかけて理解していくものや、じわりと沁みてくるもの、すぐには言葉にできない余白のようなもの。そうしたものが、少しずつ見えにくくなっている気もする。
リアルな世界とフェイクの境界が曖昧になっていく未来。それは単に技術の進歩というだけではなく、人間の感覚そのものを試してくるようにも思える。
願わくば、その境界が完全に消えてしまうことは避けたい。だが同時に、人間はいつも、自分たちが作り出したものに飲み込まれてきた歴史もある。
だからこそ、せめて自分の手の中にあるこの小さな画面に対して、どう向き合うのか。その選択だけは、手放さずにいたいと思う。
