みんな変だろう

演劇をやっているから変な人といえばは変な人なのだろう。これを変えるなんてことはそんなに簡単にできないし、むしろ変というのがあたかも悪いニュアンスとして使われるのはなぜだろう。だから、変な人と思われるのを払拭したいと考える人がいる。だいたいみんなそもそも「変」だと私は思っている。人と変わっているところがあるから面白いのだ。

私は演劇人は増やしたいと思っているし、そのために様々な場所で演劇を活用することを実践している。多分、演劇人を直接増やそうなんてことはすぐにはできないから、演劇の可能性を感じてもらえる人や場を増やしていくことが先だと考えている。お芝居は楽しいと思っているけれど、そう思ってない人もおそらくいる。なんでわかってくれないのかという押しつけとか、みんな誰でもできるとか、できないとか、演劇人たち自身が固定観念にとらわれていないだろうか。

「誰でも」なんてことはそもそもあり得ない。みんなができるわけがない。したいわけではない。

音楽みたいにとか、美術みたいにとか、演劇を比べる考え方にも疑問を感じる。そもそも違うものを、同じように楽しんでもらうとか、活用してもらうとかを考えても、うまくはフィットしないのではないだろうか。演劇が演劇であるためには、その独自の進化をしていくしかない。新しい形や手法でどうやって演劇を人々に届けるかを常にトライしていくしかないと思っている。

そして、もし自分が今やっている方法で、演劇を見る人や関わる人が増えていないのであれば、おそらく何かがううまくマッチングしていないのだろう。少数でいいからとか、わかってもらえる人だけにということは、最初はそれでいいと思うが、長く続け、なおかつ広がりを作っていくには、それでは足りない。演劇の進化の上でどのように貢献できたかを問うていかなくては、自分がやってきたことは何も次世代には残せないだろう。

気づけば佐賀で活動を初めて12年が経っている。10年続けた団体が2つ、8年続けた団体1つ、その他諸々やってきたが、物事がいい方向に変わったものもあれば、まだまだな部分も多い。子どもや若者の教育的効果というのは実績としてあるにしても、それがやはりまだまだ大きくは認知されていないし、受け入れられていない。少しずつは前進していると感じるものの、この広がりの速度では足りない。自分が活動を続けていければいいというだけのことを私が望んでいないからであろう。演劇が教育的に認められ活用されるとか、演劇が仕事として成り立つとか、演劇をやることで生業がたてられるとか、そんなことを地域にいても実現したいものだ。

夢みたいなことを言ってんじゃねーよと多分言われるかもだが、夢を語ることから始めないと実現はしない。

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