昨日までなかったものを

「右にならえ」の国なのだと改めて気づいた。つまりは自民党総裁決めだ。派閥というのがあり、それに所属している限り、派閥の意向に従うというものだ。党員は個人の考えでは動かず、周りの雰囲気に従う。ある意味飼い慣らしやすい。言うことを聞いてくれるのだから。これが日本の民主主義なのですよね。

空気を読むことを何よりも重んじてきた国は、あまりかわりはしない。察してあげて、言われる前に動いて、相手の考えを汲み取る。それが美徳とされてきたのだから変えようとすること自体が間違えているのかもしれないとさえも感じる。

葬式に黒マスクをという文化が浸透し始めているという記事を読んだ。これも右にならえ。黒をつけていた方が喪に服している感じがでると思った人がいて、それを声を高らかに言い出したら、人が賛同しはじめて、やり始める。喪服の中は白シャツだ。だからマスクは白でもよくないか?

右にならえの教えは小さい頃から始まる。周りがやっているかから、そうしてくれと子どもが親にお願いをする。他人の家庭は違うものだと言えるならいいが、そうでなければ、なんとなく人に合わせる。信号無視もみんなで渡れば怖くないという風に揶揄されるように、同じことをしたがるのはなぜだ?タピオカなどの一時的な流行り物がどんどん出てくるのも日本は多いと言える。

思えば、小さい頃から少し変わったことをやるのが好きだった。自分というものは何かを見つけたかったのだろう。自分にしかできないことを探したかった。今、それが完全にできているとは言えないが、少なくともオリジナルなものを世の中に出そうとはしている。

世界を歩きたいとうずうずしている最近だ。日本人というアイデンティティは決して消えることはない。だからこそ、世界で日本人があまりやったことがないことをやりたい。コスタリカという国で日本人として演劇のワークショップをやったこともあるが、他の日本人ももしかしたらいたかもしれないが、きっと多くはないだろう(その時の新聞記事が今日の写真です)。友人の弓削田さんのおかげでもあるが、南アフリカの小さい町で、イベントをやった日本人もそうそういないであろう。まあ、舞台は世界でも日本でも関係ない話だが、世界の方がレアなことはどちらかと言えばやりやすいのではないかと思っている。

旭化成のキャッチコピーのように「“昨日まで世界になかったものを”創造し続けること」はカッコいいなと思う。出来る限りそのような生き方をしていきたい。

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