とある会議の中で、ふと「演じるとは何か」について議論する場面があった。それをきっかけに、自分なりに考えてみた。
「演じるとは何か」と考えたとき、演技という観点から捉えるならば、それは身体を通して意味が立ち上がっていく過程そのものなのではないかと感じている。
一般に演技とは、内面にある感情や意図を外に表すことだと捉えられる。しかし、モーリス・メルロー=ポンティの身体論に触れると、その前提は少し揺らぐ。身体は単なる道具ではなく、それ自体が世界と関わりながら意味を生み出していく存在である。そう考えるならば、演じるという行為もまた、身体が世界と出会い直す出来事として捉え直す必要があるのではないだろうか。
実際、演劇の稽古の中で、頭で理解するよりも先に身体が動いてしまう瞬間がある。なぜそう動いたのかは後からしか説明できない。それでも、その動きには確かな必然があるように思える。身体はすでに状況や相手に応答しており、思考はそのあとを追いかけているに過ぎない。演じるとは、そうした「わかる前に動いてしまう身体」を信じることでもあるのかもしれない。
そして、その身体は決して一人で完結しているわけではない。共演者との距離、視線、呼吸、空間の気配、さらには観客の存在までもが、微細に身体へ影響を与えている。ミハイル・バフチンが語るように、人は本質的に他者との関係の中で存在しているのだとすれば、演技もまた、他者とのあいだで立ち上がる現象なのだろう。自分の内側から何かを出すというよりも、関係の中で自分が変わっていく。その変化そのものが、演じるということに近い。
また、身体には日常の癖が深く刻み込まれている。同じ立ち方、同じ間の取り方、似たような反応。それらは安心をもたらす一方で、どこかで可能性を閉じてもいる。だからこそ、演じるという営みは、その慣れ親しんだ身体のあり方から少し逸れてみることでもある。思いもよらない動きや感覚に出会うために、自分の身体を裏切ってみる。その先に、まだ知らない「誰か」が立ち現れてくる。
そう考えると、演じるとは、役になることでも、感情を作ることでもないのかもしれない。身体が他者や世界に開かれ、揺さぶられながら、少しずつ別の存在へと変わっていく。その連続の中にこそ「演じる」はある。固定された何かに到達するのではなく、変わり続けていく過程そのものが、演じるということなのではないだろうか。
