指導者ということ

ギリギリで動き、移動時間が長いから車中で物を食す。こんな生活は何も変わっていないと思うと、なんとも成長していない自分がいることに気づいた。大学時代はバーガーキングで、今じゃカロリーメイトだ。少しは栄養やダイエットを気にしているらしい。太り安い体質だから、忙しくていた方が食べなくても気にならないことはいいことだ。特に夜が遅くなると、ガッツリ食べる気にはなれない。幸いにもサプリメントやプロテインは飲んでいるから健康は保たれている。今のところは…

今日のレッスンで私が伝えたことは果たして正しかったのだろうかということを気にしながら車を走らせる。気になることがあると睡魔と戦わずにすむことに苦笑いがでる。表現とは自分のためであると思いたいが、どうしても恥ずかしさや照れがでてしまう傾向がある日本人にとって、相手のために表現をすることを勧めることをする。お互いが恥ずかしくて表現をすること躊躇している時に、自分だけのことを考えずに、相手のために自分から表現をしてあげると、相手を助けることになるということだ。謙虚さという日本人の美徳にはうなずけるところもあるが、その産物が自信のない日本人だ。恥ずかしがり屋でもいいが、やる時はやるというスイッチを入れることができるようになって欲しいと思っている。私も芝居や指導をやっている時以外はスイッチを切った目立たない奴だったりする。

表現をしてもいいと感じさせる空気や雰囲気を作ることは、ある意味、指導者の技量にかかっている。あまり表現を引き出せなかった時は、参加者のせいではない。だからどんな指導者と出会うかによって、大きく変わってくる。私は幸いも素晴らしい指導者らに恵まれた。表現をしたいと思わせてくれるレッスンやワークショップや授業を受けてきた。私もそこに憧れをいただいたから指導者という道を選んだ。果たして、私は師匠たちのようなことが本当にできているだろうか。

思えば二十歳くらいからずっと表現について考えてきた。この奥深いテーマの研究の終わりなどない。実践をする場は山ほどもらっているから、分析を経て、新しいやり方をもっと生み出さねばならない。

100歳超えても現役だった偉大な先生のことを思い出した…(写真、今はなき佐賀市民会館にて)

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