英語を使う必然性

みなさん、

こんばんは。今日も仕事を終えてからのルーティーンです。ブログのネタを日中探しているけれど、結局はPCに向き合ってから何を書くかを決めているというのが正直なところです。ちょっとばかり時間をとられますが、日記を書くことと同じような感覚で、自分が今感じていることを残しておくことは振り返ってみると楽しいものです。私が書くことを楽しく読んでくださる方がいるのであれば、それは非常にありがたいことです。

本日は、研修の現場で仕事をしているので、それに関連したことを書きます。

私は英語に関係する仕事をしているのですが、常に考えることは「英語を使う必然性」です。本当に必要となれば、誰だってすぐに英語を使えるようになれます。でも、おそらくほとんどの日本人はその必然性はないでしょう。「これから英語が必要になるであろう」などと言われますが、それは「今」ではなく「これから」であるし、それがどれくらいのものなのかを本当にわかる人なんていません。わからないものに対して備えようとするのは無謀なのではないでしょうか。

現状では限られていますが、英語を使う仕事は増えつつあります。それはたくさんの企業がインバウンド対策や物を海外に売ろうとしているので、そこには英語を使う必然性があります。なので、英語が使えることで機会が広がることは間違いないです。しかし、これも本人が好きでやる気がるのであれば、そこに進めばいいのですが、「「やりたい」ではなく「できればいいな」レベルだと、多分やらないでしょう。

この必然性を授業で作ることに対して、色々と考えています。それがそもそも普通の授業で可能なのかということも含めてです。可能でないのであれば、それができるようなカリキュラムを考えることが必要です。英語を使うには、それを使う相手が必要であり、それが先生であるということが効果的であるのでしょうか。また、活動として英語を学生同士で使うこともそうです。日本語がわかるのに、なんで英語を使うのか。それが英語の授業だからという理由では足りない気がしています。学生にとって、単位をもらって就職をするということではなく、英語を本当に使えるようになるという目的があれば、授業において学生同士で練習をすることにも必然性がでてきます。留学をするとか、英語を使う仕事に就くとかいう具体的にが目的があれば、もっと必然性はでてきます。

こんなことは、おそらく当たり前だと思う人もいるでしょうし、確かにみんな言っていることかもしれません。英語を使う機会が非常に少ない日本に居る日本人にとって、どのようにすれば効果的に、確実に英語がつかえるようになるのかについて、たくさんのみなさんが考えて研究を重ねてこられてきたのだと思いますが、このテーマは未だに永遠なもののように感じてしまうのは私だけではないはずです。全ての学生に対して万能なやり方を生み出せる人がいたら、きっとすごいことになるでしょう。それを目指して、実践と研究を重ねているのだと思います。しかし、英語の先生が授業を1人でやるという古典的なやり方では、結果をだすことは難しいのではないでしょうか。

手法としてかなり効果があると言えることは、英語を使う相手(可能が限り外国人であり、ネイティヴでなくてもいい)と少人数グループで英語を使う活動をすることです。学生同士ではない人が小グループに1名入るだけで、英語でその人とコミュニケーションをとらないといけなくなるし、その人のことを配慮して、学生同士でも日本語では話すのではなく、なるべく英語で話すようにします。タスクを与えて、何かを一緒に協働をして達成できたら、英語を使うことの実践だけでなく、意味を体感できるでしょう。

さらに、そもそも日本語で自分があまり知り合いでない他者とでも会話ができることがまずできなくては、英語でそれをやろうというのは無謀ではないかと考えています。だから、まずは日本語でしっかりとコミュニケーションをとれる素地を作ることが、英語を学ぶ前にすべきことです。そこの実践と研究として、演劇やLSPの手法が関わってくるのです。誰とでもコミュニケーションをとれるようになり、どんな人とでも活動できるようになることは、どのような仕事に就くということよりも、まず人として社会生活を営む上で必要なことではないでしょうか。

英語、演劇、LSPをツールに、また、最近では、ITの活用や、それ自体を学ぶことについても、自分の実践と研究のテーマに入りつつあります。

…というところで、明日の現場のスタートも早いので、そろそろ寝なくては…。おやすみなさい。

Related Posts