二十歳の自分

みなさん、

こんばんは。今日は寒い!冷たい雨もシトシトと降り続けていましたね。冬を感じた1日でした。

そういえば先日は成人式でしたね。その年頃の自分の子どもがいてもおかしくない年齢ですので、知り合いの多くの子どもさんは成人されたようです。大人になるまでしっかり育てた保護者の皆様にとったら感慨深いイベントであると思います。日曜日の佐賀城本丸でも撮影をされていた振袖姿の女性の方々がいました。

二十歳の当時、アメリカで大学に通っていた私も一時帰国して成人式を地元で行いました。ブルーに近いパープルのダブルのスーツ姿だったと記憶しております。高校は地元で通っていないので中学の頃の同級生と飲んでいました。演劇に出会って芝居ばかりやっていましたが、アメリカの大学だったので授業はちゃんといかないと単位は簡単に出してくれなかったですし、英語で進めれる授業は実は休んでしまうと追いつくのが大変になるので、ほぼほぼ授業は休んでいなかったです。課題もちゃんと出さないと先生たちは容赦なかったので、留学生で英語が難しいから少し期限を延ばしてくれと頼んだりしていました。演劇に没頭する日々ではありましたが、勉強も必死でした。

私は学生時代に厳しくされたことがあるので、それが当たり前だと思っていました。そしてアメリカでも大学で教鞭をとるようになり、普通に厳しくすることをやってきました。そして日本に帰ってから日本の大学では、そこまで厳しくできないのだということに気づきました。授業に来ることや、課題を期限までに提出することは当たり前だと思っている私だったので、もし何らかの理由があるのであれば連絡があると思っていましたが、そうではないのが現実でした。

失敗や間違いを起こすことはいいのです。期限に間に合わないなら言ってくれればいいのです。無断でそれをすることは大人として社会生活を過ごす上ではやってはいけないことです。大学だからいいという考えではなく、学生である間に人生の練習をする場ではないかと私は思うのです。実際に私はそういう基本的なことの大切さを学生の頃に学ぶことができました。

なので、今回の名城大学で起きた教授が単位を出さないことが理由で学生に刺された事件は、本当に腹が立つのです。自分がやらなかったことを他人のせいにはしてはならない。それを大学で許されてしまったら、その後の人生においても、それでいいのだ、何とかしてもらえるという甘い考えてになってしまいます。それがアカデミックスタンダードを保つという意味だと私は信じたいです。

二十歳の自分は、日本で仕事や活動を今のようにやっていることは想像できなかったです。あの頃は一生アメリカで生活して、まさにアメリカン・ドリームに本当に乗っかることを考えていました。誰にでもチャンスを与えてくれる国がアメリカだったからです。誰もバカみたいや夢でも否定しないし、いくらでもやり直せるのがアメリカでした。そこで培った精神は今でも変わっていません。なので新しいことにチャレンジし続けることができているのだと我ながら思っています。逆にいうと、いつまでたっても子どもなのかもしれませんがね…。演劇をやっていることは変わりません。ただ私が作詞と脚本を手掛けるミュージカルを創ることは考えていなかったです。

よく考えると、私がもし日本に帰ってこなかったら、私が立ち上げに関わった「幕末・維新佐賀の八賢人おもてなし隊」もTMCも「さがドラマスクール」も始まっていなかったかもなんですよね。もし私がやらなかったら、違う形で何かを誰かが生み出した可能性はもちろんありますがね。二十歳の頃は先々が不安ではなく、自分が将来どこでどんな活動をしているかなんて本当にわからなかったですね。とにかく目の前にある芝居をやり、実績を積むことを考えていました。

今日の写真は二十歳ではなく22〜23歳くらいでしょうか。役者を目指していたのでこのような白黒写真の裏に演劇履歴書を貼ったものを持っていき、オーディション受け、モノローグをやって、運が良ければ2次審査で脚本読みをさせてくれました。懐かしい20代ですなあ…。

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