ありがたく思うこと

みなさん、

こんばんは。今日も1日お疲れ様でした。

先日の弓削田健介さんとのシェア会でもでてきた、「時間どろぼう」のSNSとどう向き合うかということを考えています。実は、俗にいう「SNS疲れ」を感じている最近です。FBにツイッター、インスタグラムなど、毎日、色々な人が色々なことをアップされます。それを追っかけていくと、面白いものに出会える反面、見なきゃよかったと思うことにも出会ってしまいます。ある程度自分で自分自身にルールを決めないと、あっという間に時間は盗まれてしまいます。仕事をしている合間の息抜きとして、ご飯を食べる時になんとなく、歩いている時でさえチラ見、などなどついつい手がスマホに伸びてしまいます。トイレへもお風呂もへも…。歯止めがきかないということはこういうことでしょう。

SNSは義務ではないということを、改めて自分に言い聞かせる必要があります。やらなくてもいい。やってもいい。それは自由なのです。

そこで、自分を顧りみてみます。私が発信する内容で、誰かが不快になっていないだろうか。マナーは守られているだろうか。言論の自由なのだから、そこまで心配する必要はないのかもしれません。しかし、読み手が自分の意図していないように捉えてしまうことがあるのも事実です。現に、このブログでもそうでしょう。私が書いていることに対してどう思われるかは、この文章に出会った時の気分や状況次第で変わったりもします。もし、不快にしてしまっていたらすみません。こんな当たり前のことを書いて、つまんないなぁと思っていらっしゃるかもしれませんね(笑)。

私としては、せっかく読んでくださるのだから、できればポジティブな気分になってもらいたいです。

発信をし続けることは、そこには相手がいるからです。私の思いや考えが届いているほとんどの人たちは、何かしら自分の人生に関わってくださっている方々でしょう。そんなみなさんに、感謝しかないです。

一緒に時間を共有できる素敵な人たちがいて、自分は一人でなんか生きていません。いつもお世話になりっぱなしです。たまに誰かの役に立つことができたとしても、それは些細な恩返しにすぎないのかもしれません。そうやって人間はいつの時代も生きてきたのではないでしょうか。

ふと、ハワイの日系人の方々のことを思い出しました。明治時代初期にハワイに行った日本人の人たちは、数年でお金を稼いで日本に帰るつもりでした。しかし、実際にはそうではなく、結果的に移民となってしまいました。お金をたくさん稼げるどころか、賃金は安く、過酷なプランテーションでの重労働だったのです。日本人として、異国の地で生きることになった彼らは、どんなに大変だったとしても、協力をして乗り越えていったそうです。大変だけれども、生きていける。常に、「おかげさまで」の気持ちを忘れなかったそうです。

「おかげさまで」で生きていることは、今も昔も変わらないでしょう。私は一人ではなく、みんながいることに、ありがたく思います。

「人類が始まった時から 
私たちは知っていた
自分は一人では
生きていけないと
いつも感じてた
だから人と出会い
明日を信じ
魂を通わせ
ともに生きる
笑うことを覚えた時のように
心は気づていた
時に孤独を感じても
一人きりだと思っても
そっと手を差し伸べる
あなたがどこかにいた
誰かのために
誰かのために
生きていきたい」

「誰かのために」(作詞:青柳達也、作曲:比留間光悦)より

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